［望夢楼］／［いろいろなよみもの］／「風が吹いていた」
風が吹いていた。
たまらなく懐かしい風が吹いていた。
僕は、郷愁［ノスタルジア］をくすぐられるような草原に、ひとり、ぽつねんと立っていた。
透き通るような青い空。
眺めているだけでどこかへ駆け出したくなる、そんな青い空。
どこまでも果てしなく続く草原。
そして、その草原を吹き抜ける風。
──ナゼ、僕ハコンナトコロニイルノダロウ。
ひとり呟いて空を見上げる。
──ナゼ、僕ハココヘ来テシマッタノダロウ。
呟き声は空しく響くだけ。
──ナゼ……。
答える者はない。
聞こえてくるのは、
はるか遠くから響いてくる街の音と、
そして、静かな風のざわめきだけ。
それでも僕は、自分に問い続ける。
──ナゼ、僕ハココニ来タノダロウ。
ココニ来ルベキダッタンダロウカ。
ココハ僕ガ来テヨイトコロナノダロウカ。
＊ ＊ ＊
“お久しぶり。”
突然の声にびくりとして、横を振り向く。
そこには彼女が立っていた。
長い髪を風の中に踊らせ、
愛しい微笑みを浮かべた少女が。
いつかどこかで逢った気がする、
それでいて、いつどこで逢ったのか、
少しも思い出せない、そんな少女が。
“やあ……。”
誰もいなかったはずなのに。
けれど、彼女の瞳は、しっかりと僕を見据える。
“どうしてここに来たの？”
彼女はどこか寂しげな微笑みを浮かべる。
途端に、何もかも思い出せそうな気がした。
彼女とのこと、
楽しかったことや、嬉しかったこと、
彼女と一緒にいて心地好かったことの全てを。
それなのに。
それなのに、なぜ、はっきりとした記憶を呼び覚ますことができないのだろう。
いくらでも思い出せそうな気がするのに、
脳裏に浮かぶのは、ぼんやりとした微かな印象だけ。
遠い過去の記憶は、
ぼやけて、もうはっきりとした像を結んではくれない。
“わからない……”
意味のない言葉が口をついて出る。
“あたしに逢いにきたの？”
“たぶん……そうなんだろう。”
彼女の顔が一瞬輝く。
だが、次の瞬間、その顔は曇る。
“ばかね。ここにくれば結局は辛くなるのに。
そんなことはよく知っているはずじゃない。”
──ソウダ。僕ハソンナコトハ良ク知ッテイタハズダ。
ソレナノニ。ソレナノニ。
なぜここに居るのかもわからないのに、
僕の脳裏には、そんな言葉がこだまする。
“知ってる。だけど……。”
“ほんとに？”
──イヤ、ホントウニ良ク知ッテイタンダロウカ？
ホントウニ？ ホントウニ？
彼女の言葉が、頭の中を意味もなく通りすぎてゆく。
と、彼女はまるで僕のことを見透かしたかのように、
そっと僕の肩に手を乗せて、目を見つめ、
“わかった。”
と、にこりと微笑んだ。
＊ ＊ ＊
“哀しいね、
自分ではもう、何をしているのかもわからない。
ただ、消え去りかけたあたしの記憶をたどって、
ここに来てしまっただけ。
多分あなたには、もう、
あたしがどういう人間だったのか、わかりようもないんだね。
思い出の中に残されたのは、
いつもあたしがすぐ側にいた頃の、
ただなんとなく楽しげだった影だけ。”
透き通るような声。
目を離せば今にも消え去ってしまいそうな、寂しい声。
その声で彼女は謡う。
“哀しいね、
でもあたしは、現実のあたしのただの影。
本物のあたしの居るところは、
あなたにはもう決してたどり着けない場所。”
──イヤ、影デモイイ。
ソレデモ、彼女ト一緒ニ居ラレレバ。
ズット一緒ニ居ラレレバ。
僕ハ──
“ほんとうにそれでいいの？”
ふと、謡うのを止めて、彼女が尋ねる。
──ソウダ。僕ノ心ノ中ナンテ、彼女ハミンナオ見通シナンダ。
“ほんとうに？”
と呟いて、彼女はまた謡いだす。
“ここは時の彼方。どこにもない場所。記憶の中だけにある場所。
現在から追いかけて行っても、永遠に到達出来ない場所。
未来の閉ざされた場所。
そしてあたしは過去。実体のない、過ぎ去った時。
決して永遠に現在になれない存在。ましてや未来なんて。”
──ソレデモイイ。イインダ。
ソレデモ、君ト一緒ニ居ラレレバイイ。
僕ノ……未来ナンテ……
“ほんとうに？”
彼女が再び尋ねる。
僕は思わず頷く。だが、彼女は小さく首を振る。
そして、僕の目をあらためて見据えて。いやに真剣そうな目つきで。
“ほんとうに、思い出せないの？
ほんとうのあたしがどんな生き物だったのか、
なぜ、あたしとあなたが別れなければならなかったのか──”
辺りの雰囲気が、突然暗く染まる。
何か、よくはわからないが忌まわしきものが、
心の奥底から浮かび上がってくる。
そうだ。
なぜ彼女のことをはっきり思い出すことが出来なかったのか。
それは、彼女が遠い過去の記憶になりつつあるからだけではなく──
＊ ＊ ＊
“ごめん、ごめんね。”
どうやら少しの間だけ、僕は気が遠くなっていたらしい。
気がつくと、彼女が心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
だけど、さっきまではくっきりとしていたその姿は、
今はぼんやりとして、頼りなげだった。
“無理して、嫌なこと思い出させちゃって。”
その声もか細く、今にも消え去りそうだった。
“ほんというとね。
あたしだって、あなたに逢えて嬉しかった。
あなたとずっと一緒にいたいとも思ってる。
だけどそれは無理よね、最初から。
時間は流れてく。記憶も流されてく。あたしの記憶も。何もかも。
それが世界の法則だから。”
彼女の身体は、しだいに透けていく。
“だから、たとえあなたがいくら忘れたくなかったとしても、
いつまでもあたしの記憶を持ち続けることは出来ない。
ましてや、現実から、あたしの記憶の中に逃げることなんて……。”
“もういいよ、もう。判ってる。
だけど、あまりにも寂しかったから……。”
言葉が思わず口をついて出る。
もはやほとんど消えかかった彼女は、それでもにっこりと微笑みを返す。
そして。
“また、逢えるよね……。”
と呟いてから、首を振って、
“いや、もう駄目かもしれないな……。”
まるで、自分を嘲るように。
“でも、仕方ないよね……。
……寂しい……ね……。”
──消滅。
＊ ＊ ＊
叫び出したい気持ちを押さえて、ぐっと空を見上げる。
彼女は消えてしまった。
草原の彼方に。
否、僕の記憶の奥底に。
──風が吹いていた。
たまらなく寂しく、そして懐かしい風が吹いていた。
僕は、果てしなく広がる草原に、ひとり、ぽつねんと立っていた。
透き通るような青い空。
たまらなく哀しい青い空。
どこまでも果てしなく続く草原。
そして、その草原を吹き抜ける風。
そこにはもう、誰もいない──。
［望夢楼］／［いろいろなよみもの］／「風が吹いていた」