［望夢楼］／［いろいろなよみもの］／［飯山坂資料館物語・プロローグ］

　その日は霧が濃かった。辺りのものは、全て霞んでぼやけて見えた。そのため、少女の目には、その、霧の中にそびえ立つ館は、ひときわ謎めいたものとして映った。
　そうでなくても、不思議めいて見える館だった。古く、少し朽ちかけてきた木造の校舎か何かを思わせるような、ちょっと小さめの、木造の建物で、ちょっと見ると、いささか古びているようだったが、それでも虫などには決して侵されておらず、霧の立ちこめた林の中に、それはしっかりとそびえ立っていた。じっと見ていると、どこか懐かしい感じがしてくる……それは、そんな印象を人に与える建物だった。
　その建物へと続く霧の道を、まだ幼くあどけない少女が、母親に手をひかれながら歩いていた。大きく開かれたその建物の扉の前にたどりつくと、少女は、何が気になるのか、しきりに建物を見上げていたが、そのうち、母親に急かされるようにして、中に入っていった。
　「いらっしゃいませ。」
　二人が中に入ると、受付の所に座っていた若い女性が、まるで待ち構えていたかのように、立ち上がって挨拶した。
　「こんにちは。」
　母親は、受付の女性に、まるで、旧知の間柄とでも言うように、親しげな挨拶を交わした。
　「こんにちは。……あれっ、今日は……」
　受付の女性は少女を見て、なぜか、ちょっとぎょっとしたようだった。
　「あ、これが、ほら、例の、娘のあゆみよ。……ほら、あっちゃん、ちゃんと、挨拶しなさい。」
　母親にせかされて、あゆみと呼ばれた少女は、
　「こんにちは、あゆみ、です。」
とおずおずと答えた。
　「偉いわね。ちゃんと挨拶できるのね。」
　「はい……」
　受付嬢に褒められて、あゆみは、ぱっ、と顔を赤くした。
　「さ、ママたちはちょっとお話があるから、その辺りで遊んでらっしゃい。」
　「え……ママ？」
　あゆみは突然そう言われて、ぎょっとして、母親を見つめた。一方、受付嬢の方も、変に思ったらしく、こう、母親に尋ねた。
　「あれっ、いいの？」
　「いいのよ。あゆみはあれでもしっかりしているんだから。」
　「でも、その辺りって、この資料館……」
　「いいんだってば。」
　母親の、有無を言わせぬ強調子に、受付嬢はひるんだのか、そのまま、口をつぐんでしまった。一方で、これ以上はどうも母親に相手にれそうにないようだ、と思ったらしいあゆみは、仕方なくその辺りをうろつきき出した。
　少し薄暗い館の中は、外から見るよりずっと広く見えた。そして、そこには、おそらくは世界各地から掻き集められたものであろう、様々な、なんともいえない不思議な物が、あるいはガラスケースに入れられて、あるいは裸のままで、あちこちに展示されていた。
　館は確かに薄暗く、このような雰囲気の建物にはつきものとも言える、底知れぬ不気味さを確かに持ってはいたが、しかし、展示物の一つ一つは、決して、怪奇な、不気味なものではなかった。それはむしろ、見る者に、あるいは尽きること無き興味を、あるいは不思議な懐かしさを与えるものであった。
　あゆみは、この館が、英語ではMuseumと呼ばれるもの……日本語に言い換えれば、博物館、美術館、資料館などと様々な言い方をされる存在であることなど、全く知らない。彼女はそれまでこの類の建物に入ったことなどなかったのだ。それゆえ、彼女の目には、その建物の中の全てが、新鮮に映った。彼女は、しばらくの間、ぼぉーっと、熱にうかされたように辺りの展示物を見上げていたが……やがて、好奇心にかられ、あそこにはどんなものがあるのか、と、館の中を、あちこち、積極的に歩き出した。
　と……突然、館の奥の方から、一人の、あゆみと同い年くらいの少年が飛び出してきた。あっ、と思ったあゆみがとっさに避けるのも間に合わず、二人はものの見事に正面衝突した。
　「ってて……だいじょぉぶ？」
　先に起き上がって相手に声をかけたのは、少年の方だった。年相応にやんちゃ気味の部分のあるその少年は、その科白の割には、あまり相手のことを心配していないような顔で、あゆみを見つめた。
　「だいじょぶ……だけど……」
　あゆみも、その科白の割には、今にも泣き出しそうな顔をして起き上がった。……が、次の瞬間、彼女は、怒り狂って、（月並みな言い回しながら）烈火の如く、少年を責め立てた。
　「なで……なで、いきなりぶつかってくんのよお！　なで！　なで！　まえちゃんとみてよ！　まえ！　まえっ！」
　こう言いながら、だんだんあゆみは泣き出しそうになってきた。そこへ、ようやく事態に気付いた母親と、受付嬢が駆け寄ろうとした、ちょうどその時──
　「ごめん！」
　少年は突然立ち上がって、真剣な顔をして、少女に向かい、深く頭を下げた。
　あゆみは、突然の展開に、びっくりして黙り込んだ。おそらくは何を言ったらいいのか判らなくなったのだろう。
　「……ごめん。ごめんてば。だからさ、いっしょに……。」
　ちょっと照れた様子の少年に、あゆみは怒る気をなくしたのだろう、二人は、そのまま、そこで話をはじめた。
　話しあっているうちに、いったいどういうわけで意気投合したのだろうか、二人は、あちこちを走り回りはじめた。
　二人の大人は、ほっとした顔で、その光景を、しばらくの間、眺めていた。だが、受付嬢の顔には、どういうわけか、心なし寂しげな雰囲気が浮かんでいた。

　やがて、あゆみたちが帰る時間がきた。
　あゆみは随分ダダをこねて、母親をてこずらせたが──それを傍から見ていた受付嬢の顔には、また寂しげな雰囲気が浮かんでいた──、結局は、なんとかなだめられてしまった。
　「ほら、あゆみ……あの子にお別れの挨拶しなさい。」
　母親にせかされて、彼女は、少年に向かって、ちょっと寂しそうに、
　「ジュンくん……バイバイね……。」
と、手を振った。
　少年は、にっこり微笑んでこう返した。
　「あっちゃん……また、ね……。」

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