［望夢楼］／［いろいろなよみもの］／［飯山坂資料館物語・第４章］
「この人、ほら……」
風崙はそう言って、仰向けに倒れて失神している男の右手の先を指差した。そこには、手帳とボールペン、そして写真が何枚か散らばっていた。
「悠子さんじゃありませんか？」
そう言いつつ、風崙はその中の一枚を指差す。そこには、なるほど、悠子に良く似た若い女性が写っている。
「あ、ほんとだ……」
鮎美は思わずそう呟いてから、ふと、気づいたように、
「え、あれ、このおっさんって、さっきの話に出てきたおっさんなんじゃ……」
と風崙に尋ねた。
「え、何の話ですか？」
風崙はきょとんとする。
「だから、このおっさんって、風崙ちゃんとこの神社だとかを襲ったっていう……」
「……いえ、全然違います。」
風崙はきっぱりと答える。
「そうなの？」
「顔とか全然違いますよ。それに、あいつはこんな髭なんか生やしてなかったし。鮎美さん、なんでそんなこと考えたんです？」
言われて鮎美は思わず男の顔を覗き込む。なるほど、顔の真ん中に聖徳太子風の泥鰌髭が生えている。なかなか立派な髭だ。だが、その髭と顔全体が全く調和していない。要するに、顔は大したことないのに、髭だけ分不相応に立派なのである。
おまけにこの男、何のつもりか、随分立派な蝶ネクタイをしている。これまた、羽織っているトレンチコートとの違和感は相当なものだ。
「じゃ、こいつはなんなんだ。」
鮎美はそう呟きつつ、今度は落ちている写真を観察する。写真は全部で五枚。そのうち一枚は、何かの記念写真らしく、何かの建物を背景にして、若い男女五、六人が一緒に写っている。他の四枚の写真は全て顔写真で、そのうちの一枚が、先ほど風崙が見つけた悠子と思しき女性の写真だ。良く見ると、記念写真の方にも悠子は顔を出していて、堂々とど真ん中に写っている。
「悠子さん、これ……」
鮎美は悠子の方を向いた。
「うん。あたしが写ってるね。」
悠子はいともあっさりと、自分が写っていることを認める。
「なんでですか？」
「なんでだろね。」
悠子と鮎美は互いに顔を見合わせる。
「なんでだろね、って……」
「いやー、なんでだろね。なんであたしの写真をこのおっさんが持ってんだろ。」
悠子はあくまでとぼける。鮎美は、もう一度写真の方に目を向けた。
悠子の以外の三枚の顔写真には、鮎美の一向に見知らぬ人物が写っている。記念写真の方とて同じ。どの顔にも見覚えがない。いや……一人だけ、悠子の左隣に写っている若い女性に、鮎美はふと、どこかで見覚えがあるように感じた。もっとも、具体的にどこの誰であるかは、すぐには思い出せなかったのではあるが。
「だいたい悠子さん、さっきいったい何があったんです？」
虹村が口を挟む。
「あ、聞きたい？」
「ぜひとも」
悠子の質問に、虹村・鮎美・風崙の三人が一斉にうなずく。
「そーか、ぜひとも聞きたいか。ふむ。」
悠子はそれでも何やら言い渋っているようだったが、
「……いや、ちょっと脅かしてやっただけなんだけどねぇ……。」
と、ゆっくり話し出そうとした。
が、ちょうどその時、突然、男がうめき声をあげた。
全員、一斉に男の方を振り向いた。男は目を開け、首を振り、ゆっくりと起き上がろうとした。だが、四人の方に顔を向けた瞬間、彼は目を見開いた。その瞳には、恐怖の色が宿っていた。そして──
「うぁぁぁぁぁっっ！！」
そう叫ぶなり、彼は立ち上がり、外の方に向かって全力で駆け出した。その場に残された面々は、彼がはるか遠くへと逃げ去って行く姿を茫然として見守るほかなかった。
しばらくして、悠子が呟いた。
「ちょっと脅かしてやっただけだったんだけどなぁ……。」
「……い、いったい何をやったんですか？」
鮎美が恐る恐る悠子に尋ねる。悠子は苦笑しつつ答えた。
「だから、ちょっと脅かしただけなんだってば。」
だから、その「ちょっと」というのは、いったいどういう程度のことを指すんだ、と鮎美は根本的疑問を感じずにはおれなかった。もっとも、答えを聞くのが怖いような気もして、その点はあえて質問しなかったのだが。
「だいたい、なんでお客さんを脅かすようなことを……」
鮎美の質問を無視して、悠子は誰に言うとでもなく呟く。
「でも困ったな。今になってこんなことになるなんて……」
「あの、悠子さん、聞いてます？」
「鮎美ちゃん……。」
悠子は突然、真顔になって鮎美の顔を見つめた。
「え、あ、あの、悠子さん？」
とっさの対応がつかず、鮎美はどぎまぎする。
「あなた、家はどこなの？」
「えーと……このすぐ近くです。飯山坂の町外れの……」
「そこには昔から住んでるの？」
「いえ、中三の時……二年前に引っ越してきたんです。」
「その前は？」
「それまでは井上市に住んでて……そこにも確か小学校の頃に引っ越してきたと思うんですけど。その前はちょっと……」
「そう……」
悠子は何か真剣に考え込んでいる様子だ。
「あの、悠子さん、あたしん家が何か……？」
「鮎美ちゃん。」
悠子は再び真顔で鮎美に向き合う。
「今日、ここに来たのは、偶然なわけよね。」
「ええ、まあ……」
阿寿巳などという変わった生き物に出会ったりした上、ちょっと変わった同級生にもばったり出会う、というような偶然が起こる確率って、果たしてどのくらいなんだろう、などと思いつつも、鮎美はそう答える。
「鮎美ちゃん。」
悠子は真顔で続ける。
「今すぐ家に帰った方がいいわ。それと、出来れば、もうここには近づかないほうが……あ、ううん。ごめんね。いつもなら、それこそコーヒーでも入れて大歓迎したいとこなんだけどね。だけど、事情が事情だから……。」
「え、な……何でですか？」
鮎美は思わず問い返す。
「知らない方がいいと思うけど。」
悠子はひとひと、そう答える。
「知らない方がいいと思う、って……」
なんだか良く聞くような台詞だなぁ、で、こういう時って大抵、実際にはそれほど大したことでもないようなことなんだよなぁ、と鮎美は心の中でぼやく。
「ともかく、この場で見たことは、夢だとでも思って忘れた方がいいと思うわ。」
普通忘れられるもんか、こんな体験、と鮎美は心の中で叫ぶ。
「わかった？」
なんだか物凄く納得のいかないものを感じるなぁ、と心の中で呟きつつ、それでも鮎美は、なんとなくうなづいた。
「それと、虹村くん。」
悠子は今度は虹村の方を向く。
「……以下同文。」
「……なんか、えらく簡潔ですね。」
虹村はさすがに一瞬、むっつりとした様子だったが、すぐに、
「ま、判りました。」
と、いともあっさりとうなずいた。
「あの、あたしは……」
風崙がおずおずと口を挟む。
「あ、ごめん、風崙ちゃん。あなたは……そうね。あたしのところに来て。とりあえず、住むとこ、寝るとこくらいはあるからさ。」
「あ、はい、でも……」
「いいから、遠慮しないで。どうせ、しばらくちゃんとした食事も取ってないんでしょ？ まずは食べて、寝て……あとはまた、それから考えようね。」
「はい……。」
風崙はこくりとうなずく。それを見た悠子は、また虹村と鮎美に向かって、
「じゃあ、まだ時間には早いけど、悪いけど早めに閉館にさせてもらうね。」
と告げた。
「あ、はい。」
虹村はいともあっさりと、そして、
「ええ……」
鮎美は納得できないものを感じつつも、それぞれ答える。
「それじゃ、さよなら。」
戸口の外に出た二人に、悠子はそう別れの挨拶を告げ、
「……また、逢えたらいいね。」
と、ひとこと付け加えて、それからゆっくりと、館の扉を閉めた。
「まだ時間には早い」と悠子は言ったものの、太陽は既に西の空に沈みかけ、十一月の短い日はもう暮れようとしていた。
資料館を出てすぐに、飯山坂公園で虹村と別れた鮎美は、家までの道程を、ひとりとぼとぼと歩いていた。
（いったい、あれはなんだったんだろう……。）
時間にしてみれば、たかだかせいぜい二、三時間というところだったろう。その間に、沢山のわけのわからないことが、一気にどっと押し寄せた。鮎美は、なんだか、どっと疲れたような気分になった。
（結局、阿寿巳ってなんだったんだろう……それに、悠子さんのあの態度、あれはどういうつもりだったんだろう……それにあの男は……それに……）
とりとめのない考えが頭に浮かんでは消える。だが、精神的に疲れているせいか、それぞれの考えは、一向に具体的な実を結ぼうとしない。
（……ああ、もう、どうでもいいや……。）
ようやく家にたどりついた頃には、鮎美はほとんど思考停止状態に入っていた。
家族とろくに話もせずに、それでも食事と入浴だけはきちんと行って、鮎美は二階の自室のベッドに倒れ込んだ。
その翌日、月曜日の朝。
鮎美はベッドの中で悲鳴をあげた。
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